【どうでもいい話】医療人であるということの意味
今日日、医療に関わらない人間は居ない。
単純に、通院、入院、受診だけ考えても(美容整形やクリニック、整骨院は除く)
恐らく一生に一度も医療を経験しない人間はほとんど存在しないだろう。
少なくとも、日本に生まれ戸籍を持っている人ならば。
生まれる前の産婦人科、生まれた直後の検診なんかはほとんど自我が無いわけだから例外としても、生きていれば避けて通れない道。それが医療。
かくいう自身も二度の交通事故に遭い、救急車に運ばれること二度。
縫った傷で、未だに頭頂部は少しハゲている。
家族を例に挙げても、父方の祖父母は脳梗塞と腸閉塞の手術歴がある。
母方の祖母は腎不全で透析しており、祖父は大腸がん、前立腺がん、脳内出血、パーキンソン病等々で入退院を繰り返している。
母は甲状腺腫で摘出手術を受けた。父は重症の肺炎で入院し、そもそも毎年のように花粉症で受診をしている。
妹は昔から生理痛が重く、産婦人科、ウィメンズクリニックの常連だ。
一家族だけでも、年に何十回と医療を経験するわけ。
つまり、日本1億2千万人居れば、八十年で100億回、1000億回、ひょっとすると1兆回の受診があるわけ。この辺は統計を見れば推測よりもハッキリすると思うけど、とんでもない数の医療が駆け巡っているわけだ。
こうした側面を持つ属性は他にもあって、教育は誰しもが避けて通れないし、交通もそう。車産業だってそうだし、外食産業もそうだろう。
ただ、これらと明確に違うのは、医療はネガティブである、という顔を持つこと。
教育、交通、輸送、外食。これらは人の生活を豊かにするものであり、積極的経済動作とも言える。
行えば行うほど基本的にはプラスになるものであり、一般に対価を支払って良化をもたらすものだ。
一方で、医療は必ずしもプラスになるとは限らない。
受診した時点でその人間は患者という立場になり、病者というタグが付く。
病気を治す、という言い方をすればプラスになるではないか、と言われても、全ての病気が完治するわけではないし、悪化していくのをとどめるだけに過ぎなかったり、逆に正常な医療が行われてもマイナスになることだってある。
いやいや、教育でもマイナスになることだってあるし、何だって言い方を変えればそうだろ、と言われるかもしれない。
だが、上記と決定的に異なる点は、マイナスになったからといってそれを辞めたところでゼロには戻らないということだ。
単純なプラスマイナスだけでは説明不足になりかねないが、本質的に医療とは、マイナス産業なのだ。
マイナスになるため、多くの人間が一生関わる。
それなのになぜこの文化が紀元前から続いているかと言われれば、寿命という、いつかは必ずゼロになるものをプラスにできるからである。
多くの完治しない病を抱えた患者は、マイナスになってでも、寿命をプラスにするために医療に関わる。
因果な商売だ。
人がマイナスに傾いて行くのを、間近で、眺めていなければいけない。
時々、心苦しくなる。
自分は20代だが、通院する多くの患者は高齢者だ。
それも、慢性期の総合病院ともあれば、70代、80代、90代の患者はグっと増える。
自分と半世紀以上も年が離れ、文化も異なり、おおよそ残された寿命も異なる人間が、徐々に衰弱していくのを観察していれば、なんだか自分まで小さくなっていくような、そんな気がする。
透析の患者は、回転が早い。
1病棟50人ほどの透析患者が居れば、1年で1割が入れ替わる。その半分ほどは転院や長期入院などだが、残り半分は無くなる。
往々にして、安らかな最期では、ない。
体中がカレー色になり、黄疸の激しさで一秒を生きるのも苦しそうにしていた。
あんなににこやかにしていて、薬を持って行くと笑顔でチョコをくれた。
午前中に薬を渡して、翌日にはもうこの世に居なかった。昨晩、急変したらしい。
透析患者の急変は珍しいことではない。
朝あんなに元気にしていても、夜には激烈な最期を迎えることもある。
透析でなくても、慢性期の患者はあまり予後が良くない。
自分が今の薬局に配属してから、何年か経ったが、最初期に居た慢性期の患者は何人か直接訃報を聞いた。
数年で十キロ以上痩せた人もいる。
元気すぎてうるさいくらいだったおじいさんは、もうほとんど会話することもない。最近は、家族が代理で来局する。
受け持ちしている在宅(訪問薬剤管理)は、今年に入って5人が亡くなった。
この辺は本人も家族も終活を見越しているからか、そこまで激烈な人は少ないが、
それでも先週顔をあわせたときは元気だったのに、もうあの顔をみることもないのか、とおもうことがある。
そしてやっぱり、ある時を境に急激に元気が無くなっていたり…
二年も、毎月毎月訪問したのに、初めての人と言われたり。
マイナスの世界に生きるっていうことは、そういうことだ。
自分よりももっとそこに近い、終末期や看取りの病院の看護師さんは、逆に当たり前すぎて、気にしない人が多いんだとか。回転が早すぎて、いちいち気にしていたら他の患者さんがおろそかになる。
すげえ、って思った。
まだ学生で、病院実習でTPN混注を毎日のようにしていた時。
病棟業務で、自分が作ったTPNを使う患者を見に行くことがあった。
体中管だらけだが、すぐに亡くなりそうな人ではなかった。
最後に会話したのが16時。実習は17時で終わる決まりで、日誌を書いて17時半に上がった。その日の18時に急変して亡くなったことを、翌朝来た時に知った。
ずっしりと来た。
まだ祖父母は存命で、小さい頃から関わって来た身内が死んだことが一人もない自分が幸せすぎるからだろうか、どうも人が弱っていったり、死を迎えることを直視するのを未だに一人一人受け入れている。
どんなに全力を尽くしても最後はゼロになる仕事。
果たして、生きている間少しでもプラスを与えられるような人間に、医療人はなれるだろうか?